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◆雑感/バックナンバー この人の一言 立川談志  

 「でも、落語が捉えるのは<人間の業の肯定>だけではないんです。人間が本来持っている<イリュージョン>というものに気がついたんです。つまりフロイトの謂う『エス』ですよね。言葉で説明できない、形をとらない、ワケのわからないものが人間の奥底にあって、これを表に出すと社会が成り立たないから、<常識>というフィクションを拵えてどうにか過ごしている。落語が人間を描くものである以上、そういう人間の不完全さまで踏み込んで演じるべきではないか、と思うようになった。ただ、不完全さを芸として出す、というのは実に難しいんですが・・・。
   【吉川】<人間の業の肯定>から<イリュージョン>を描くほうに重点が移ってきたわ
         けですね。
<イリュージョン>こそが人間の業の最たるものかもしれません。そこを描くことが落語の基本、もっと言や、芸術の基本だと思うようになった。」(「人生、成り行き 談志一代記」聞き手・吉川潮 新潮社)

立川流の家元、立川談志。異端、反逆の落語家と言われるが、まっとうに落語を愛し、自分の芸を見つめ、何を観客に伝えるかと真剣に格闘する落語家である。以前NHKで談志の落語及びドキュメントの10時間番組があった。その中に昨年の暮、東京・三鷹公会堂での独演会のドキュメントが入っていた。私はその日その場にいた。ドキュメントでその開演間近、三鷹駅で車に乗る談志がいた。体調悪く、「今日は駄目だ」と談志。その日の開演は20分程遅れた。出てきた談志は「今日はどこまでできるか分からない」と言って、軽い噺を一席。休憩に入った。後半本当にやるのだろうか、と思わすような前半の体調。それでも再度、談志は舞台に上がった。「今日はみんな時間あるかな、ちょっと長い噺をやろうと思う」と前置きして《芝浜》を演じ始めた。噺の世界に引き込まれて、終わっても少しの間席を立てなかった。番組の中でも、この噺を全部放映した。談志自身も満足の行くできで、再度テレビで観ても素晴らしかった。「人間の不完全さ」を演じ切れていた。ぐうたらな魚屋とその女房の話。談志が舞台で女房を演じているのでなく、生身の女房がいて、正しいことをやったのに、亭主におどおどしながら言い訳している。
談志は自らの不完全さを知っている。不完全な芸をみせてしまうのではないかということに怯えながら、人間の不完全さを舞台の上で描く。確かに談志の言うように「実に難しい」。談志の芸は常に変化している。変化を言い換えれば、《揺らぎ》である。揺らぎは柔軟さでもある。談志の噺の中で人物は揺らぎつつ、談志を離れて動き出す。
この《揺らぎ》こそ現代に失われたものではないかと思う。人は人に関わざるを得ないからこそ揺らぐ。今の世の中、マスコミ、評論家を初め、変に自分に自信があるように思える。立場上断定的に言っているが、実は不完全かもしれない、と思っている人がどれだけいるだろう。様々な事件の加害者にしろ、被害者にしろマスコミは断定的にその人物像を決め付ける。そうしないと、不安なのだろう。それは談志の言う「常識というフィクションを拵えて」ということなのだろう。本当に自分の判断は正しいのかという《揺らぎ》があってこそ、人の気持ちが理解でき、人の本質が見えてくる。☆2008.12.1